社会を形作るもののうち、教育が担うウェイトは大きい。これからの日本を支える人を育てよう、として打ち立てた教育ビジョンこそ「ゆとり教育」だった。
負の側面ばかり語られることの多いゆとり教育の本当の狙いとは何だったのか。そして、その功罪、つまり社会に与える実影響は何なのか。
あえて学力低下についてはフィーチャーせず、人間の多様性と社会の変化に焦点をあてて考えていきたい。
なぜゆとり教育だったのか
何事も、計画を立てるときには理想と未来予測との狭間で揺られるもので、ゆとり教育もその例外ではない。ゆとり教育は、それまでの「詰め込み型教育」に取って代わるものとして、21世紀における日本の教育の方向性として提唱されたものだ。
そもそもゆとり教育とは何だったのか。
将来予測がなかなか明確につかない、先行き不透明な社会にあって、その時々の状況を踏まえつつ、考えたり、判断する力が一層重要となっている。さらに、マルチメディアなど情報化が進展する中で、知識・情報にアクセスすることが容易となり、入手した知識・情報を使ってもっと価値ある新しいものを生み出す創造性が強く求められるようになっている。
このように考えるとき、我々はこれからの子供たちに必要となるのは、いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力であり、また、自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性であると考えた。
今後における教育の在り方の基本的な方向(文部科学省)
つまり、時代の変化にあわせて教育方法も変えていかないといけないという議論のなかで、ゆとり教育というビジョンが提唱され今に至るのである。
これだけ見れば至極まっとうなことを書いているように思う。この保守的な国としては、かなり先進的な取り組みだ。
ゆとり教育で起こったこと
さっきも書いたように学力低下については触れない。書きたいのはもっと根源にかかわる、「人間と社会がどう変わったか」についてだ。
自由を与えられて育ったことで、他の世代よりも多様性が生まれた。テレビ番組の話題で盛り上がる、みたいに共有されたコンテキストを前提にしたコミュニケーションは、恐らく旧世代にくらべて減ったのだと思う。子を取り巻く外部環境が多様化したことで、それぞれ思考・趣味・性格がよりバラバラになった。ゆとり教育では、これを「個性」と呼ぶ。
実際、この傾向そのものはとても素晴らしいと思うし、狙い通りだったのではなかろうか。
これからの時代で重要なのはコラボレーション(協働)であり、複数の人間が協力することによって問題を解決していくスキルが不可欠だ。人間同士の違いを乗り越え、足し算ではなく掛け算にしていく能力こそ21世紀ないしグローバルな現場で必要なのである。
一方で、社会の中で秀でてる人とそうでない人との圧倒的な格差をも生んだ。言わば世代内格差とでも言おうか。
自由を与えられて育ったから、誰かに強制されてイヤイヤ何かをする機会が少なくなった一方で、落ちぶれる奴はとことん落ちぶれたし、自律的に動けるやつはより輝き、のびのびと頭角を表した。
金太郎飴みたいに同じような人間を量産するよりはマシなのかもしれない。金太郎飴はよくも悪くも平均的だったから落ちぶれる人も少なかったのではないかと推測する。
もうひとつの問題点は、思ったよりも自律性豊かな若者が育たなかったことだ。
多様性は豊かになったけれど、「●●がしたい」とエネルギー漲る若者は少ない。もっと言えば、欲がない。リスクをとらない。東大生はやはり官僚になりたがるし、早大生はネームバリューに釣られとりあえず大企業に入る。優秀な若者こそ挑戦しなきゃいけないのに、だ。
ゆとり世代を推進していた寺脇研さんあたりはもっと若者たちの起業や海外進出が増えることを期待していたのだろう。それでも、さほど増えていない現状って何が問題なのだろう。
ゆとり教育と社会とのギャップ
まぁこんなわけで、狙い通りにいかなかったところもあったところもあったけれど、ゆとり教育のビジョン自体は紛れもなく未来を見据えたものだったのだと思う。
逆に、ゆとり世代でやろうとしていたビジョンに社会の仕組みが追いついていない側面もあるのではないか。
日本社会というのは「本来の人間らしさ」を放棄させる構造になっていて、ゆとり教育で推進するような「自律性・多様性の尊重」は虐げられている。端的に言えば、個人を埋没させている。いまだに「我慢」を美徳とし、社会や集団に迎合することを「真面目」として尊重する。ビジネスにおいてそれが優位性を産んだのはとうに昔の話であって、今の社会にあってそんな旧来の文化を引きずっていてはビジネスとしてもまず成功できないし、働く人たちが幸せにならない。
この異常性に気づく人がもっと増えればいいのに、と思う。
ガチガチの旧態依然とした大企業は個人個人の輝きや自律性なんか見向きもしないし、オーナーシップの欠片も与えない。そんなもん知らんわ、勝手に言うとおりに働けよという姿勢だ。 こんな会社こそ時代錯誤甚だしいし、いずれ社会の変化についていけずに凋落するのだと思う。
こういった問題に対して、ゆとり教育が目指したのは個人の自律性や多様性を尊ぶ社会を作ることだった。いきいきと、人間らしくたくましく生きていく人を増やすことだった。
だから、今の若者が持ついくつかの特性は、未来の社会を先取りしているものなのだと言える。確かにゆとり教育は完璧ではないし、若者たちに足りていない部分もある。それでも、「これだからゆとり世代は…」と無闇にバカにするのではなく、ここのところをしっかり客観的に捉えておかないと時代の変化の方向性を見失うことになる。
若者がゆとり教育を知る意義
そういえば、ぼく自身もゆとり教育によって生み出されたひとつのアウトプットであることを書いていなかった。
この話題がぼくの好奇心をかきたてたのは、僕自身がどういうコンテキストのなかで生まれ育ち、今に至るのかを知りたかったためだ。誰でも「自分は何者なのか」を正しく現状認識しなきゃ幸せになれないわけで、その点で若い世代自身が「ゆとり教育って何だったんだろう」と考えることには深い意味があると思う。
若い人たちはそうやって自分自身のことを俯瞰し、自分自身の優位性や特徴を整理しておくべきだし、若くない人たちは時代の変化の方向性を想像して日々の仕事に取り組まないと未来を見誤ることになる。
今までに見聞きしたことのない異物がどんどん世の中に溢れ出る時代だからこそ、想像力と受容力をもって生きていきたい、と思う。
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